或春(あるはる)の日暮(ひぐれ)です。

 唐の都(みやこ)洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

 若者は名を杜子春(とししゅん)といって、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を費い(つかい)尽して、その日の暮しにも困る位(ぐらい)、憐な(あわれな)身分になっているのです。

 何しろその頃(ころ)洛陽(らくよう)といえば、天下に並ぶもののない、繁昌(はんじょう)を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに(もんいっぱいに)当っている(あたっている)、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗(しゃ)の帽子や、土耳古(トルコ)の女(おんな)の金の耳輪や、白馬に飾った色糸(いろいと)の手綱(たづな)が、絶えず流れて行く容子(ようす)は、まるで画(え)のような美しさです。

 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて(もたせて)、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月がうらうらと靡いた(なびいた)霞(かすみ)の中に、まるで爪の痕(あと)かと思う程、かすかに白く浮かんでいるのです。

 「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだしーーーこんな思いをして生きている位(ぐらい)なら、一そ(いっそ)川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」

芥川龍之介

三日月


















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記事更新日:2022/09/11