フリーベルィは、母国語を録音したテープを普通に回したときと、逆回ししたときとでは、聴いているデンマーク人被験者の血流に大きな差が生じることを明らかにした。普通に回したときには、テープから流れる言葉に含まれるメッセージを理解するために、聴覚中枢と言語中枢をはじめ、この作業に関連する中枢の活動が活発になる。ところが、テープを逆回転させると、なんと脳全体が活性化するのだ、逆回ししたテープは、普通に回したテープより理解しにくい。というより、理解できない。だから、脳は逆回転のテープの内容を消化するために、普通よりずっと多くのエネルギーを使わなければならない。テープが普通に回っていれば、たんに言葉を聞いて特定のコンテクストの中で理解するだけだから、意味んは明白そのものだ。ところが逆回しだと、聞こえてくるのはナンセンスばかりで、何らかの意味を掴むのは至難の業となる。

ところで、これは情報理論とどんな関係があるのだろう。普通に回しても逆回転させても、ビット数は同じに決まっていると思われるかもしれないが、実はそれは聞く人しだいなのだ。

テープを普通に回したとき、聴き手がそれを理解できるなら、その人が経験するのはその言語によって符号化されたビットだけだ。これは聴覚イメージ中に存在する総ビット数よりもはるかに少ない。

しかし、テープの意味がわからなければ、普通に回そうと逆に回そうとビット数は変わらない。聴き手は聴覚イメージの中の音の差異という形でしかテープの音声を知覚しないので、どちらに回そうが、聴き手の捉える音の差異の数は同じになるからだ。

正しく回したとき、それが理解可能なテープだとわかっていれば、逆回転させたときよりテープのビット数は少ない。テープに吹き込まれた言語がデンマーク語だとわかっていると、聞き手にとって聴覚イメージの中の意外性は減る。つまり、情報量は少ないということだ。もちろん、デンマーク語がわかる人の場合だが。

意味をなさない録音に含まれる膨大な情報量を消化するには、意味を成す録音を聴くときより多くの働きが脳に要求される。秩序を経験することより無秩序を経験することのほうが、多くの情報を含んでいる。明瞭なメッセージには無秩序な情報がないからではなく、普通の話を聞いたとき、無秩序な情報はいちいち相手にしなくてもいいことを、脳がよく知っているからだ。言葉がわかれば、ほかはどうでもいい。

私たちはメッセージを聞いて、日常の意味でいう情報として知覚する。この行為が明らかにしてくれるのは、じつは、メッセージの情報量はもっとあってもよいはずなのに、意外に少ないということだ。パイプ、つまり私たちが耳を傾ける伝達経路には、メッセージを知覚するときに私たちが知覚するよりはるかに多くの細かい情報が含まれている。だが、私たちはそうした詳細を無視する。そこにあるのはメッセージで、何一つ意味のとれない不可解な暗号ではないことを知っているからだ。日常概念でいう情報とは、ほんとうは捨てられた情報のことだ。日常生活で、メッセージを聞いて情報が豊富だと思うのは、詳細や物理的な情報のすべてに注目しなくても、そこにわずかな数の差異が認められればそれで事足りるからだ。

一方、逆回転で再生したテープは、日常の感覚では情報が豊富だとは思えない。情報を処分して組み立てられたわけではなく、音の差異の寄せ集めにすぎないからだ。私たちにしてみれば、これは(物理的には大量の情報を含んでいるのだが)情報ではなく、ただのでたらめだ。無秩序はあまりに複雑な構造をしているので、逆に、構造など持たないように見えてしまう。

日常的な情報の概念は、「大量のミクロ状態を無視してもいいようなマクロ状態はあるか」という問いと直結している。もしあれば、脳は受けたメッセージを理解して消化するのにそれほど苦労しない。血流も少なくてすむ。

このように、「理解」という概念は、客観的に観察できる生理的プロセスと結びついている。フリーベルィとその同僚は、血流パターンを調べることで、被験者がデンマーク語のわかる人かどうかを、客観的に見極める方法を開発したことになる。お望みとならばナバホ語でもいいのだが。
(トール・ノーレットランダーシュ著「ユーザーイリュージョンー意識という幻想」p.151-153 )


会話をする外人














ユーザーイリュージョン―意識という幻想
トール・ノーレットランダーシュ
紀伊國屋書店
2002-09-01



The User Illusion: Cutting Consciousness Down to Size
Tor Norretranders
Penguin Books
1999-06-01



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記事更新日:2022/09/17